月別アーカイブ: 2015年1月

三鉄ぽっぽ屋「初々しいシリーズ」最若手 皆川 哲也 22歳

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遠野市と大船渡市、陸前高田市の中間にある住田町。海のない町である。主な産業は林業で、町の真ん中を気仙川が流れる至ってのどかなところだ。その町で生まれ育った。真冬でもスーツだけで過ごす。寒くはないと言う。住田町の厳しい気候風土が皆川青年を逞しく育てた。真冬でも宿舎には暖房器具が無い。耐寒力、忍耐力は間違いなく社内一だろう。

小学校時代は野球選手だった。予選会はいつも弱い相手と当たり楽勝で県大会に進んだ。小学校5年の時には県大会優勝も味わった。

住田高校では常にトップの成績だった。そこから宮古の岩手県立大学宮古短期大学部へ進んだ。東日本大震災3・11の後の4月に入学した。その時から被災地で何か役に立つ仕事をしたいと思い、沿岸以外の就職には興味を持たなかった。その思いがピークに達したときに「三陸鉄道の求人」があった。即決断し試験を受け、正社員として採用された。

総務部に所属している。経理補助も行う。あまり口数が多いほうではなく、言われた仕事は黙々とこなしていく。嫌な仕事も率先して取り組む。朝は幹部と同じ時間、8時前に出社する。湯を沸かし新聞を整理し始業に備える。一日も休んだことがない。

夢は大きい。我慢強さは人一倍優れている。「今の上司は10年後には全部定年となっていなくなる。そこまで我慢して働いていれば総務部長になっている」と壮大でもないような夢だ。もう一つは、彼女がいないことだ。魅力はあると思うが気づいてくれる女性がいない。同じ郷里出身の菅野先輩にだけは負けたくない。はやく彼女を見つけて住田町で凱旋パレードをしたい。そうした大きな夢を抱き、今日も黙々と仕事をする。

 

遠野ふゆ物語どべっこ列車

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遠野市が2003年、全国初の「どぶろく特区」に認定され、民話のふるさとの魅力がパワーアップしました。本年1月12日、まだ正月気分も抜けない中、遠野ふるさと公社が三陸鉄道南リアス線の豪華なレトロ列車を貸し切り、「遠野ふゆ物語・どべっこ号」を走らせました。本田市長さんも駆けつけ、乾杯と同時に車内は一斉に盛り上がりました。42席の予約はすぐに満席となりキャンセル待ちが出るほどでした。車内の司会進行はふるさと村支配人佐々木るみ子さん。軽妙な司会進行であっという間の2時間でした。

手前に見えるのが「どぶろく」です。はち切れそうな笑顔の主は、IBC岩手放送の鎌田社長さんです。すでに2本目。「飲みやすい」「おいしい」を連発して、ぐいぐいと飲み干していました。お隣は、県議会議員の工藤勝子先生です。写真には写っていませんが、三鉄望月社長から三鉄の説明を受けてしっかりとメモをしているところです。実に勉強家なのですが、「どべっこ」も鎌田社長同様、ぐいぐいとお飲みになられておりました。

鎌田社長さん、よほど楽しかったのか、3本目を空けた頃から車内を回り、皆さんにお勧めする三鉄アテンダントになりきっていました。遠野ふるさと公社がこの日のために作った特製お弁当、これがまた最高においしい中身でした。食べ終わった空箱を鎌田社長さんは、自ら集めゴミ箱へ運んでおりました。参加する側のマナーもしっかり身に付けているのですね。拍手です。

何と言っても「気軽に予約可能」な三陸鉄道です。お友達同士の誕生会列車や、おじいちゃんの古希祝い列車などアイデア次第でたくさん楽しめます。ぜひ内陸の皆さま、三陸鉄道を自分たちで貸し切り、三陸の旅を楽しんでみてはいかがですか。もちろん、普通乗車も大歓迎です。沿岸に来てくれること自体、復興応援なのです。

2015.1.23盛岡タイムス掲載

笑顔をつなぐ・・ずっと の作者 下本 修 50歳

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ご覧のような破顔一笑、幸せそうな顔をしている。三鉄でも有名な運転士の一人である。東日本大震災2011年3月11日。下本は北リアス線島越駅と普代駅の中間にいた。突然の大揺れで列車を止めた。鉄道マンの厳格なマニュアル遵守による停止だった。久慈の指令からは「止まれ、止まれ」の連発。下本は指示に従い白井海岸駅と普代駅間の中間で停止させた。その後「大津波が来る。我々も非難する。的確な判断を頼む」という連絡を最後に一切の外部連絡が途絶えた。下本は15名の乗客に伝えた。「大きな地震がありました。落ち着くまで列車の中で待機してください」。この顛末については「三鉄情熱復活物語・三省堂」を読んで頂ければ判明する。途中を省略するが、乗客全員を無事に地元の消防団へ引き渡し任務を終えた。あと少し、もうほんの少し遅れて島越駅にいれば、全員が犠牲になった。ほんの僅かな時間。生死の分かれ目だった。

下本は宮古で生まれ育った。父は国鉄マン。その影響からか小さい時から鉄道が好きだった。野や山を駆け回り、海に行って魚を取り、体中生傷だらけの子供だった。

中学時代は野球にのめり込み、高校はラグビーに夢中になった。50歳になった今でも休日はラグビーで汗を流している。

あの大震災でなぜか大好きだった魚を食べられなくなった。精神状態が知らぬままに変化していた。なかなか普通の状態に戻ることが出来なかった。そんな時、望月社長に釣りに誘われた。普代村の沖合。震災で列車を止めた場所の目の前の海だった。船酔いをした。それでも釣れた。嬉しかった。尊敬する社長が釣りの師匠となった。突然以前のように魚を食べられるようになった。不思議だった。

釣りに目覚めたお陰で、運転により以上集中できる。仕事への喜びも大きく感じるようになった。同時に釣りの腕もメキメキと上がっていった。師匠が言った。「もう俺のこと、師匠と呼ばなくていい・・」師匠が寂しそうだった。いくら自分が師匠より上手くなったからと言って、師匠は師匠である。釣りというのは手加減が出来ない。仕方がないのでまた師匠より釣ってしまう。これもやはり運命と思ってしまう。震災前に会社のスローガンに採用された「笑顔をつなぐ、ずっと・・」。自分の素直な気持ちを表現した。素晴らしい会社、笑顔のある会社。生きがいを感じる日々。釣りも「笑顔をつなぐ」、社長にも笑顔をつなぎたい。

 

 

超真面目男 新田 克浩 大船渡市三陸町甫嶺 生まれ  50歳

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人生で一番嬉しかったこと。能年玲奈ちゃんの息吹を感じながら、一緒に踊れたことである。踊る前は緊張して3日ほど眠れなかった。踊った後は嬉しくて3日ほど眠れなかった。新田の体力は並外れている。強風、大雪、地震、緊急対応のプロ。3、4日寝なくても全く問題なく平然としている。しかも「文句を言わない」優しい性格である。上司の吉田哲は、そのあたりを見通し、何かあればすぐに「新田くん、ごめん、頼める?」と困ったときには「新田」と決め込んでいる。小さい時からそういう性格だったかというと、実は記憶がない。どんな子供だったんだろう。聞いてみると「たぶん、普通の子だったと・・」ということで、異常ではなかったようだ。三陸鉄道の給与は岩手県でも低い部類に属する。「給与はしっかり頂いています。岩手県の平均より低いけど、世界的に見ればいただけるだけ恵まれています。」とどこかの経営者が聞いたら涙を流して「サラリーマンの鏡だあ」と大喜びするに違いない。不平不満は無い。「誰かがやらないといけないので」。嫌な上司っているの?には「上に行けばいくほど大変なので、怒られてもそれが仕事だと思うと、嫌な上司はいません」。じゃあ、ライバルはいるの?「入社してから、誰かをライバルって思ったことないし、ライバルって言葉自体よくわからないし」。質問する方は大変なのである。じゃあ、未来の自分の姿を想像したことある?「う~ん、まっすぐ進むだけで、考えたことは・・ありません」。とまあ、実にいい人なのである。実直で素直で、人を疑わず。50歳までおそらく小さい時から「そのまま」で生きてきた人だろう。最後に聞いたのは「じゃあ楽しい?」。「はい、楽しいです。充実しています」と。

東に困ったことがあれば駆けつけ、南で強風があれば率先して列車を守り、北で大雪があれば雪かきに汗を流し、金野、吉田のように目立ったところには決して顔を出さず、たとえ給料が低くても、世界にはもっと困っている人がいると自分のしあわせを有難く思い、日々感謝の心で過ごす。そんな新田のように私はなりたい。きっと宮沢賢治の生まれ変わりだ。

独身。こんな新田を可愛がってくれる人、大歓迎。ただし女性です。

徳じいの夢花籠 祝村長在位30年

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久慈市山形町(旧山形村)にバッタリー村があります。都会とは真逆の生活ときれいな空気が一日中流れる、のどかな山村です。村長さんは木藤古徳一郎さん。84歳。30年前に「山には山の暮らしがある。都会をまねする必要はない」と開村し、現在まで多くの学生さんを中心に、小さいお子さんからお年寄りまで、多くの人たちに山村体験を提供してきました。元祖体験型教育旅行です。

木藤古徳一郎村長さんは、「徳じい」と親しみを込めて呼ばれています。その徳じいから年初にとても素晴らしい山の恵み芸術作品が送られてきました。「木皮工芸」の「夢花ざし」と言います。手前に見えるカーボーイハットが何とも言えない趣です。間伐などによって不要になった廃棄木材の樹皮を見事に生き返らせた作品です。使用する木々も多彩です。尊敬する宮沢賢治先生の言葉が書かれています。「世界全体が幸せにならない限り、個人の幸せはあり得ない」という言葉です。

徳じいは、大震災直後から遠く離れた三鉄久慈駅に出向き、また野田村などの被災地を回り心の大事さを願うボランティア活動をしてきました。徳じいの言葉には、暖炉の火より温かな思いが込められています。山々の暮らしに誇りを持って、人を大事に思いやり、自然と共に生きてきた徳じい。30年もの長い間、本当にご苦労さまでした。

筆書きのお手紙には「84歳になっていよいよ人生の本番。さあこれからだ」と書かれていました。大好きな「夢」の文字が輝いています。2015年元旦、素晴らしいお年玉となりました。いつまでもお元気でバッタリー村を続けてください。(バッタリー村の語源はインターネットで検索を)

2015.1.9盛岡タイムス掲載