三鉄ぽっぽや「熱き男たち」シリーズ 不器用ですから編

 

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熊谷 松一(しょういち) 51

三陸鉄道南リアス線を管理する南運行部に所属。絶対寡黙の不器用人種である。漁師の町、三陸町綾里で生まれ育った。周囲は気の荒い漁師。病弱だった熊谷は、弱い体を克服するため、小学校に入りサッカー少年となり、スポ少で東北大会まで出場した。小さいころの自慢はこれだ。元気になった熊谷少年は、一気に開花し、野や山、海へと腕白ぶりを発揮し、鳥獣草花魚たちを友達に三陸の陽光を浴びて育っていった。それでも元来の不器用さは直らない。

やがて地元企業「三陸鉄道」へ入社した。勤務地は盛駅。先輩に現在の総務部長の村上や南運行部の責任者吉田哲がいた。上司の彼らは「寡黙」どころか、一日中冗談を言いながら明るく仕事をするネアカ人間だった。太陽のようにまぶしく見えた。「ずぶんの生涯をかけた仕事場だ」と、三陸鉄道の社員としての誇りもしっかりと育まれてきた。

2011年3月11日。あの忌まわしい大津波が郷土と仕事場を襲った。熊谷の3・11後の動きは「三鉄情熱復活物語・三省堂」に記されている。自分の友であり、子供であり、大切な仲間でもある車両が、鍬台トンネルに取り残された。熊谷は何度も真っ暗なトンネルに足を運び、車両に話しかけてきた。「頑張れよ、もうすぐ外へ出してやるからな」と。真っ暗なトンネルの中で涙を流しエンジンをかけ、車内を掃除し劣化を防いできた。その車両を外へ出すためには、津波で破壊された線路の修復をしなければならない。三鉄の仲間総出の難工事だった。連日、連夜の工事を経て近くの吉浜駅までどうにか線路を復旧させた。取り残された車両が無事吉浜駅へ移動してきた。生涯忘れることのない光景に感涙した。

不器用で話し方も下手な熊谷が、鉄道の再開まで被災地を案内する「三鉄フロントラインン研修」という被災地ガイドを行うことになった。初めてのお客様を迎える前日は、緊張のあまり一睡も出来なかった。何度もシナリオを練習した。本番を迎え、最初の声が出なかった。次の声は震えていた。それでも真面目で誠意ある新米ガイドに、お客様から大きな拍手が届いた。家に帰り泣いた。なんとしても三鉄は復旧する。それまで会社のためにガイドも大事な仕事になる。自分に言い聞かせ次のガイドへと向かった。いまでは立派なベテランガイドに成長した。多くのお客様を案内し、被災地の悲惨さ、前向きに動く姿、頑張っている浜の人たちのことを一生懸命話している。ご案内したお客様から、数多くのお礼のハガキが届く。熊谷にとって、とても大事なエネルギーであり宝なのである。

不器用な熊谷が、東日本大震災を機に成長した。逞しくなった。上司に言われた。「失敗は恐れるな。何とかなる。自信を持って行動しろ」。彼の大事な言葉になった。