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三鉄ぽっぽ屋「初々しいシリーズ」 住田のボンボン。菅野 訓貴 24歳

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皆川と同じ郷里、海のない住田町で生まれ育った。町の90%以上が森林であり、その森林のど真ん中(つまり山奥)に生家がある。一人っ子で大事に育てられた。菅野家の期待を一身に背負い気仙杉のようにまっすぐに育った。身長は180cm。体重100キロ。背の高い社員が多い三鉄にあっても、ひときわ巨体に見える。飯は丼3杯がアベレージだ。

「かんのでございます」は、今ではすっかり会社の名物セリフとして定着。電話口での「かんのでございます」は、社外にも知れ渡っている。

小さいころは、近所に熊や鹿、蛇やタヌキ、キツネくらいしか遊び相手はいなかった。いまでも実家に帰る途中、鹿の群れがお迎えしてくれる。なぜかほっとする瞬間だ。

趣味は神社仏閣史跡めぐりである。本は歴史ものが多い。年齢の割に「年寄じみている」と言われるのは、そのあたりが原因かもしれない。話し方は極丁重、丁寧、謙譲語が多いが要点を得ない。「うざい!」と叱られる。今年はすっきりした話し方にトライする。

宮古短期大学の卒業の年に東日本大震災があった。そのため卒業式はなかった。避難を兼ねて盛岡市郊外で一年間生活をした。その時に三陸鉄道のニュースを見た。衝撃が走った。福島原発や各地の甚大な被害風景のニュースが続く中、前向きに一生懸命復旧へ向けて頑張っている三陸鉄道の姿に涙が溢れた。もう一度宮古へ戻ろうと決心した。三陸鉄道の求人があった。すぐさま応募した。入社後は無我夢中で働いてきた。まだまだ体重の半分くらいしか仕事はできないが、夢は大きい。三陸沿岸をけん引する三陸鉄道の社員として、地域再生へ尽力していくことが責任と認識している。貫禄があるとよく言われるが嫁はいない。もちろん彼女もガールフレンドもいない。このままでは三鉄の常識である「独身のまま」の先輩方々と同じになってしまう。今年中に絶対ハッピーになりたい。彼女を連れて住田の実家に里帰りしたい。三陸鉄道の車両をすべて貸切り、披露宴を大々的に行いたい。夢は決してあきらめない。

 

三鉄ぽっぽ屋「初々しいシリーズ」最若手 皆川 哲也 22歳

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遠野市と大船渡市、陸前高田市の中間にある住田町。海のない町である。主な産業は林業で、町の真ん中を気仙川が流れる至ってのどかなところだ。その町で生まれ育った。真冬でもスーツだけで過ごす。寒くはないと言う。住田町の厳しい気候風土が皆川青年を逞しく育てた。真冬でも宿舎には暖房器具が無い。耐寒力、忍耐力は間違いなく社内一だろう。

小学校時代は野球選手だった。予選会はいつも弱い相手と当たり楽勝で県大会に進んだ。小学校5年の時には県大会優勝も味わった。

住田高校では常にトップの成績だった。そこから宮古の岩手県立大学宮古短期大学部へ進んだ。東日本大震災3・11の後の4月に入学した。その時から被災地で何か役に立つ仕事をしたいと思い、沿岸以外の就職には興味を持たなかった。その思いがピークに達したときに「三陸鉄道の求人」があった。即決断し試験を受け、正社員として採用された。

総務部に所属している。経理補助も行う。あまり口数が多いほうではなく、言われた仕事は黙々とこなしていく。嫌な仕事も率先して取り組む。朝は幹部と同じ時間、8時前に出社する。湯を沸かし新聞を整理し始業に備える。一日も休んだことがない。

夢は大きい。我慢強さは人一倍優れている。「今の上司は10年後には全部定年となっていなくなる。そこまで我慢して働いていれば総務部長になっている」と壮大でもないような夢だ。もう一つは、彼女がいないことだ。魅力はあると思うが気づいてくれる女性がいない。同じ郷里出身の菅野先輩にだけは負けたくない。はやく彼女を見つけて住田町で凱旋パレードをしたい。そうした大きな夢を抱き、今日も黙々と仕事をする。

 

笑顔をつなぐ・・ずっと の作者 下本 修 50歳

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ご覧のような破顔一笑、幸せそうな顔をしている。三鉄でも有名な運転士の一人である。東日本大震災2011年3月11日。下本は北リアス線島越駅と普代駅の中間にいた。突然の大揺れで列車を止めた。鉄道マンの厳格なマニュアル遵守による停止だった。久慈の指令からは「止まれ、止まれ」の連発。下本は指示に従い白井海岸駅と普代駅間の中間で停止させた。その後「大津波が来る。我々も非難する。的確な判断を頼む」という連絡を最後に一切の外部連絡が途絶えた。下本は15名の乗客に伝えた。「大きな地震がありました。落ち着くまで列車の中で待機してください」。この顛末については「三鉄情熱復活物語・三省堂」を読んで頂ければ判明する。途中を省略するが、乗客全員を無事に地元の消防団へ引き渡し任務を終えた。あと少し、もうほんの少し遅れて島越駅にいれば、全員が犠牲になった。ほんの僅かな時間。生死の分かれ目だった。

下本は宮古で生まれ育った。父は国鉄マン。その影響からか小さい時から鉄道が好きだった。野や山を駆け回り、海に行って魚を取り、体中生傷だらけの子供だった。

中学時代は野球にのめり込み、高校はラグビーに夢中になった。50歳になった今でも休日はラグビーで汗を流している。

あの大震災でなぜか大好きだった魚を食べられなくなった。精神状態が知らぬままに変化していた。なかなか普通の状態に戻ることが出来なかった。そんな時、望月社長に釣りに誘われた。普代村の沖合。震災で列車を止めた場所の目の前の海だった。船酔いをした。それでも釣れた。嬉しかった。尊敬する社長が釣りの師匠となった。突然以前のように魚を食べられるようになった。不思議だった。

釣りに目覚めたお陰で、運転により以上集中できる。仕事への喜びも大きく感じるようになった。同時に釣りの腕もメキメキと上がっていった。師匠が言った。「もう俺のこと、師匠と呼ばなくていい・・」師匠が寂しそうだった。いくら自分が師匠より上手くなったからと言って、師匠は師匠である。釣りというのは手加減が出来ない。仕方がないのでまた師匠より釣ってしまう。これもやはり運命と思ってしまう。震災前に会社のスローガンに採用された「笑顔をつなぐ、ずっと・・」。自分の素直な気持ちを表現した。素晴らしい会社、笑顔のある会社。生きがいを感じる日々。釣りも「笑顔をつなぐ」、社長にも笑顔をつなぎたい。

 

 

超真面目男 新田 克浩 大船渡市三陸町甫嶺 生まれ  50歳

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人生で一番嬉しかったこと。能年玲奈ちゃんの息吹を感じながら、一緒に踊れたことである。踊る前は緊張して3日ほど眠れなかった。踊った後は嬉しくて3日ほど眠れなかった。新田の体力は並外れている。強風、大雪、地震、緊急対応のプロ。3、4日寝なくても全く問題なく平然としている。しかも「文句を言わない」優しい性格である。上司の吉田哲は、そのあたりを見通し、何かあればすぐに「新田くん、ごめん、頼める?」と困ったときには「新田」と決め込んでいる。小さい時からそういう性格だったかというと、実は記憶がない。どんな子供だったんだろう。聞いてみると「たぶん、普通の子だったと・・」ということで、異常ではなかったようだ。三陸鉄道の給与は岩手県でも低い部類に属する。「給与はしっかり頂いています。岩手県の平均より低いけど、世界的に見ればいただけるだけ恵まれています。」とどこかの経営者が聞いたら涙を流して「サラリーマンの鏡だあ」と大喜びするに違いない。不平不満は無い。「誰かがやらないといけないので」。嫌な上司っているの?には「上に行けばいくほど大変なので、怒られてもそれが仕事だと思うと、嫌な上司はいません」。じゃあ、ライバルはいるの?「入社してから、誰かをライバルって思ったことないし、ライバルって言葉自体よくわからないし」。質問する方は大変なのである。じゃあ、未来の自分の姿を想像したことある?「う~ん、まっすぐ進むだけで、考えたことは・・ありません」。とまあ、実にいい人なのである。実直で素直で、人を疑わず。50歳までおそらく小さい時から「そのまま」で生きてきた人だろう。最後に聞いたのは「じゃあ楽しい?」。「はい、楽しいです。充実しています」と。

東に困ったことがあれば駆けつけ、南で強風があれば率先して列車を守り、北で大雪があれば雪かきに汗を流し、金野、吉田のように目立ったところには決して顔を出さず、たとえ給料が低くても、世界にはもっと困っている人がいると自分のしあわせを有難く思い、日々感謝の心で過ごす。そんな新田のように私はなりたい。きっと宮沢賢治の生まれ変わりだ。

独身。こんな新田を可愛がってくれる人、大歓迎。ただし女性です。

三鉄「熱き男たちシリーズ」 ニヒルなナイスガイ 三鉄の「高倉健」 岡本 準 50歳

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背が高い。体躯は高倉健と瓜二つだ。風貌が似ている。「不器用ですから・・」と小声で言うが、担当の施設管理部では担当部長として仕事はきっちりと器用にこなす。

出身は大槌町。東日本大震災で壊滅的打撃を受けたところだ。小学校時代は、品行方正、謹厳実直、スポーツ万能だった。大槌の神童と呼ばれた()。中学校時代は、身長がありバレーボール部のエースとして活躍した。そのころから甘いマスク、物静かな仕草からかなりモテたらしい。やがて釜石工業高校電気科へと進学。電気科での学びがその後の三鉄の専門家「電気屋岡ちゃん」と呼ばれるエキスパートへと成長する元となった。

同期に同じくらいの身長のある総務部長の村上がいる。こちらも浜一番モテた。(ともに本人談) 「俺は段ボール一つラブレターもらった」「おれは軽トラ一杯かな」と良く二人で言い合う。二人とも今はあまりモテない。

豊富な電気、通信の知識、経験は社内随一だ。北リアス線、南リアス線、すべての電気技術者として一目置かれている。部下の指導は厳しい。「プロである以上、中途半端な仕事はするな」と高倉健のように叱る。部下は「怖い」という。面倒見もいい。だから頼りにされる。

無口、寡黙、職人風だが、泣き虫でもある。「娘に会いたい・・」とつぶやいて泣く。酒を飲んでも娘を思い出して泣く。単身赴任が辛いのではなく、娘に会えないのが辛いのだ。愛娘の自慢を話すと、約2時間は話せる。止まらない。部下も「何度同じことを聞いても、初めてのように聞きます」と心得ている。

釜石では、郷土芸能の「虎舞」の名手。地元の太鼓グループのメンバーでもある。こよなく三鉄と娘と郷土を愛するナイスガイである。