「三鉄ぽっぽ屋」カテゴリーアーカイブ

三鉄ぽっぽ屋「花形運転士シリーズ」ニヒル風 鈴木 浩(ゆたか) 48歳

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実は、通学女子のNO1人気男。(だった) 笑わない。ニヒル風である。専任運転士というより、運転指令と半々の業務で、リーダーシップ抜群の男気、菊池運転士のような女っぽいところがない男の中の男なのである。責任感が強く、地元消防団の専任班長も務めている。

男気エピソードも多い。大船渡高校2年の時に、野球部が初の甲子園。なんとベスト4まで進んだ。鈴木も応援に駆け付けたかったが、応援歌の練習をさぼり、唄えなかったので行けなかった。野球部の友人から「甲子園の砂」をもらった。男気から、その場でふたを開けたら逆さまになってしまい、砂が流れ落ち、その場で消滅した。砂は儚いと知った。

家は、大船渡市の中ではもっとも山奥に位置する幽谷の中。日頃市町。人はあまり住んでいない。水道は自然水を使っている。蛇口をひねったら、水と一緒にサンショウウオが出てきた。嫁さんが気絶した。男気を出して嫁を抱きかかえた。熊の出没は日常的で当たり前。熊と目が合い、男気を出してすごみあった。負けた。

男気は日常生活でも発揮されている。勝負事が好きだ。パチンコ、麻雀、将棋、ゴルフ。常に賭けている。遊び人ではなく、勝負師なのだ。金は溜まらない。

昭和60年4月に三鉄へ入社した。駅業務、車掌、運転士、指令と順調に進んできた。震災では、三鉄の復旧と消防団復旧業務と連日連夜働いてきた。頭脳より体力で貢献するタイプのため、肉体労働は苦ではない。震災後、もう一つの第三セクター岩手銀河鉄道に平成24年に出向。翌平成25年に三鉄へ復帰。

三鉄の地域貢献事業の一つに「駅‐1グルメ」がある。その取材は鈴木が大船渡エリアを担う。足を棒にしながら気仙沼、陸前高田、大船渡の飲食店を探し回る。あきらめないのが身上だ。鈴木が発掘した被災店舗で生き返った店も多い。男気なのだ。

男気家族は、妻一人。子供二人。母一人。結婚16年。妻は熊に立ち向かえるようになった。妻は男気を操っている。

三鉄ぽっぽ屋「花形運転士シリーズ」 真打登場 隠れたスター運転士 下村 道博 41歳

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足が長い。背が高い。運動選手として活躍(市内駅伝大会・中学、高校で区間賞・卓球、バトミントン、陸上、テニス)。心が優しい。笑顔がいい。三鉄南リアス線最年少。こう並べると非の打ちどころがない。しかし欠点もある。控えめ過ぎる。そのため数々の取材攻勢の中にあっても、目立たない存在だった。吉田や菊池、佐々木光一などがテレビ新聞に出まくっていても、その姿をカメラの前にあらわさない。幻の運転士と言われる。まるでイワナのようだ。もう一つの欠点は、足が速いがのんびり屋である。決して急がない。急ぐ時も「悠々として急げ」、まるで作家の開高健のようなのだ。実は地元ではこの笑顔にファンが多い。上は90のおばあさんから下は幼稚園児と幅が広い。特に女子高校生に大人気で、先輩運転士、特にKからひがまれている。もう一つの欠点は「欲がない」。すぐに満足してしまう。今の幸せな職場で、家に帰れば好きなサッカーを見る。それ以上望まない。

最大の欠点は既婚者であること。三鉄独身帰属集団に入会できないことだ。

 下村は、平成6年に三鉄に入社した。バブルが弾け、就職氷河期の真っただ中にいた。友人たちも一向に就職が決まらず焦っていたが、下村は「何とかなるさ」と悠々としていた。先生から「三鉄があるぞ」と言われ、即刻決断。6月22日に入社した。下村は思い出した。昭和59年4月1日。超満員の三陸鉄道の開通の日に乗車したことを。沿道にも駅のホームにも、お祝いの旗を振る人で溢れていた。小さい時ながら鮮明に記憶していた。

車掌さんは背が高かった。光り輝いてまぶしかった。今は上司になって髪の毛が薄くなっているが。その格好いい三鉄へ入社できると、空を飛んでいるような昂揚感で一杯だった。

 東日本大震災でこの昂揚感が途切れた。が2年後部分再開。3年後全線再開と再び昂揚感を味わう。まるで30年前に三鉄が開業した時と同じく、沿道、駅、ホームに人が溢れた。こんな幸せなことを2度3度と味わえたことに心から感謝している。大きな声であいさつし、笑顔で毎日お客様を迎えたい。多くの人たちに支えられて復活した三鉄。今度は自分たちが三陸を元気にしたい。下村は今日も目立たず控えめに働いている。

 

 

三鉄ぽっぽ屋「不世出の名経営者」 社長登場 望月 正彦 63歳

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すでに知れ渡っているので、あえて「熱き男たちシリーズ」に登場させるには躊躇する感がある。しかしテレビ、新聞等のマスコミで登場する表の部分だけでは片手落ちとなる。裏の部分にスポットを当てて紹介することにした。

望月は花巻市で生まれた。大自然の真ん中で育った。父の影響からか、幼い時からヤマドリやタヌキなどを捌いて食べていた。根っからの自然児なのである。「ナイフ一本あれば暮らせる」と。

三鉄社員には、顔と行動が合わない社員が多い。望月もその一人だ。あれほどの大事業を成し遂げた凄さ、ど根性はこの顔からは想像がつきにくい。誰と会っても物おじせず、社のための交渉を粘り強く続ける体力と知力。幼いころは「神童」と言われ、優秀な成績で岩手県庁に入り、最後の職は盛岡広域振興局長。つまりプロパー職員のトップになる部長職で退職し、三陸鉄道の社長となった。「為せば成る、為さねばならぬ何事も、為さぬは人の為さぬなりけり」と詠んだ上杉鷹山公の言葉通り、会社のためなら何事にも屈せずいばらの道を進む。(顔からは想像しにくいが) 東日本大震災の壊滅的打撃から三鉄を復活させたのは、もちろん社員の力によるところが大きいが、望月なくしてあり得なかった。

よく「俺があれをやった、俺がこうして動いた」などと成果を誇張する人は多いが、望月は決して言わない。むしろ何事もなかったかのように釣りに出かける。

ここで「釣り」を出したが、これこそ裏の顔だ。春の山菜採り、秋のキノコ採り、その間の海釣り、一人暇な時の川釣りと、一年のスケジュール、行程表がびっしりと詰まっている。

山歩きに関しては「自然保護課」時代がより深くのめり込むきっかけとなった。自然保護課係長であったが、山菜破壊係長と呼ばれていた。自然保護課は、まさにその知識を深める格好の勉強の場でもあった。自然に対する知識を学び足腰を鍛えた。望月に弟子入りする人も多い。新聞社、大学教授、アナウンサー、各種女性と幅が広い。

釣りも弟子が多くいるが、最近は返上の憂き目に合っている。運転士の弟子に負け始めてきた。「もう師匠というのはやめてくれ」とポツッと呟いたらしい。年末から新年にかけての2回の釣行で屈辱を味わったためだ。「グレてやる、グレてやる」と涙ぐみ年を越した。

頭脳明晰、優秀な官僚であったが、おちゃめだった。酒は好きだ。しかし弱い。懇親会などでも1時間半が限度で、千鳥足でこっそりと帰ってしまう。酒席や遊びに仕事を決して持ち込まない。酒を飲んで部下に説教などはまったく見たことがない。終業と同時に切り替えられるのだ。

会社のPRはどんなに疲れていても断ることはなく積極的に行う。講演会も多く関西方面、首都圏などハードスケジュールをこなすが、釣りや山菜採りの予定があるときは、「這ってでも帰ってくる」と強い信念を持つ。

人懐っこい笑顔が持ち味で、女子社員にもすこぶる人気が高い。女性の好みは「藤原紀香」。

硬軟併せ持った不世出の経営者である。

三鉄ぽっぽ屋「花形運転士シリーズ」 泣きの光一参上 佐々木 光一 43歳

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平成25年4月3日南リアス線が部分再開通した日、一番列車の運転士を志願した。どうしても一番に走らせたかった。満員のお客様を乗せて汽笛を鳴らしたとき、光一が涙をぬぐった。その瞬間を多くのテレビ局カメラマンは逃さなかった。全国に放送された。一躍時の人となり「泣きの光一」と呼ばれるようになった。

 

大船渡で生まれたが、父の仕事の関係で小学校一年から中学一年までの7年間を、福島県大熊町という浜通りで過ごした。常磐線が通っていた。仲の良い友達と毎日列車を追った日々。中学2年で郷里に戻ったが、鉄道への愛情は深まるばかり。撮り鉄として、鉄道の素晴らしさに益々のめり込んで行った。鉄道ファン仲間も増えた。やがて当然のように鉄道マンに憧れ、三陸鉄道へ入社した。趣味と仕事が一緒になった。

 

平成13年、長年の夢が実った。運転士試験に合格したのだ。毎日が楽しかった。車両はすべてが友達だ。

平成23年3月11日、東日本大震災。故郷の大船渡、第二の故郷の大熊町、どちらも甚大な被害を受けた。三鉄南リアス線も復旧困難と思えるほど壊滅的打撃を受けた。

「もう運転はできないかもしれない」「三鉄は維持できないかもしれない」不安が次々とよぎった。「自分は何をしているんだろう、被害を受けた郷里の人たちの何の役にも立たない」と自分の無能さを責めた。悔しさで泣き続けた。何日も涙は止まらなかった。

 

全国の多くの鉄道仲間から励ましが次々ときた。家族も支えてくれた。会社は復活に向けて動き出した。虹色の希望が見えた。会社の仲間も真っ黒になって昼夜復旧作業に取り組んだ。

平成25年4月3日、運転再開の汽笛を鳴らした。運転士として再び復活した時だ。心折れずに頑張ってきた2年間が脳裏をよぎる。自然と涙が溢れ前方がぼやけた。その後上司の吉田部長が「泣いてばかりいるから危なくて運転をさせられない」とジョークで注意した。「そ、そればっかりは勘弁してください」と必死で言い返した。

 

平成26年4月5日 北リアス線、南リアス線の全線が復活した。完全復旧まで丸3年を費やした。

沿線には手を振る人たちで溢れていた。知り合いも沢山いた。不通になっていた間も、ずっと甫嶺駅の掃除をしてくれた佐々木さん夫婦が庭先から大きく手を振っていた。涙をこらえ軽く汽笛を鳴らし応答した。

 

全国の応援者の皆様、仲間、家族、たくさんの支援を決して忘れることはない。泣きの光一は今日も大好きな列車を運転している。

 

社内の人気者 山蔭 康明 50歳 ほんとです。 血液型 A型 趣味 貯金

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社内では「山ちゃん」とか「やま」とか呼ばれ親しまれている。気持ちよく仕事をするナイスガイだ。入社後の仕事の経歴は「あらゆる部門を経験」だ。駅管理、車掌、総務、物販、損保、添乗、ガイド。勤務地も久慈、宮古、釜石、盛と異動し、住まいはマイホームを建てた遠野市。4つの市に税金を納めてきた。現在は南リアス線運行部指令となって南リアス線運行部長の吉田を補佐している。

東日本大震災は、運行部指令となってから。「お先真っ暗」の心境に陥ったが、持ち前のガッツと明るさですぐに立ち直り、復旧へ向けて全身全霊を傾けてきた。

独身である。見た目でよく「もうすぐ定年?」と言われるが、間違いなく50歳である。独身のため、というのではなく休日は時間が余る。2011年の震災の年には、この余った時間を活用し、ボランティアセンターへ40回以上通い、がれき撤去作業などに従事した。その時に全国から応援に来た人たちと仲間になり、またその応援に地元の人間として感謝の涙を流した。ロマンスは生まれなかった。

勤務地の盛まで、自宅(独身だが家を建てた)の遠野市から1時間、毎日通っている。そのためか、遠野市の観光戦略も担う。山ちゃんを頼り、遠野市が「どべっこ(どぶろくの意味)列車」を運行してくれた。三鉄と遠野市のつながりを作った。

生まれは遠野市宮守、山と川だけの村だった。特技は手づかみの魚とり。海を知ってからは磯釣りも楽しむ。幼少のころから「真面目」で口数は少なかった。「男は黙って仕事をする」が信条。ただそれではアピール力が弱いと最近気づき、女性と話せるよう訓練を始めた。高校時代は合唱部で東北大会まで行った。見た目よりずっと若く、実は面白い。

こんな山ちゃんの嫁さん、全国から募集中。きっと幸せにする力を持っている。間違いない。