三鉄ぽっぽ屋「花形運転士シリーズ」 泣きの光一参上 佐々木 光一 43歳

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平成25年4月3日南リアス線が部分再開通した日、一番列車の運転士を志願した。どうしても一番に走らせたかった。満員のお客様を乗せて汽笛を鳴らしたとき、光一が涙をぬぐった。その瞬間を多くのテレビ局カメラマンは逃さなかった。全国に放送された。一躍時の人となり「泣きの光一」と呼ばれるようになった。

 

大船渡で生まれたが、父の仕事の関係で小学校一年から中学一年までの7年間を、福島県大熊町という浜通りで過ごした。常磐線が通っていた。仲の良い友達と毎日列車を追った日々。中学2年で郷里に戻ったが、鉄道への愛情は深まるばかり。撮り鉄として、鉄道の素晴らしさに益々のめり込んで行った。鉄道ファン仲間も増えた。やがて当然のように鉄道マンに憧れ、三陸鉄道へ入社した。趣味と仕事が一緒になった。

 

平成13年、長年の夢が実った。運転士試験に合格したのだ。毎日が楽しかった。車両はすべてが友達だ。

平成23年3月11日、東日本大震災。故郷の大船渡、第二の故郷の大熊町、どちらも甚大な被害を受けた。三鉄南リアス線も復旧困難と思えるほど壊滅的打撃を受けた。

「もう運転はできないかもしれない」「三鉄は維持できないかもしれない」不安が次々とよぎった。「自分は何をしているんだろう、被害を受けた郷里の人たちの何の役にも立たない」と自分の無能さを責めた。悔しさで泣き続けた。何日も涙は止まらなかった。

 

全国の多くの鉄道仲間から励ましが次々ときた。家族も支えてくれた。会社は復活に向けて動き出した。虹色の希望が見えた。会社の仲間も真っ黒になって昼夜復旧作業に取り組んだ。

平成25年4月3日、運転再開の汽笛を鳴らした。運転士として再び復活した時だ。心折れずに頑張ってきた2年間が脳裏をよぎる。自然と涙が溢れ前方がぼやけた。その後上司の吉田部長が「泣いてばかりいるから危なくて運転をさせられない」とジョークで注意した。「そ、そればっかりは勘弁してください」と必死で言い返した。

 

平成26年4月5日 北リアス線、南リアス線の全線が復活した。完全復旧まで丸3年を費やした。

沿線には手を振る人たちで溢れていた。知り合いも沢山いた。不通になっていた間も、ずっと甫嶺駅の掃除をしてくれた佐々木さん夫婦が庭先から大きく手を振っていた。涙をこらえ軽く汽笛を鳴らし応答した。

 

全国の応援者の皆様、仲間、家族、たくさんの支援を決して忘れることはない。泣きの光一は今日も大好きな列車を運転している。