笑顔をつなぐ・・ずっと の作者 下本 修 50歳

20150122

ご覧のような破顔一笑、幸せそうな顔をしている。三鉄でも有名な運転士の一人である。東日本大震災2011年3月11日。下本は北リアス線島越駅と普代駅の中間にいた。突然の大揺れで列車を止めた。鉄道マンの厳格なマニュアル遵守による停止だった。久慈の指令からは「止まれ、止まれ」の連発。下本は指示に従い白井海岸駅と普代駅間の中間で停止させた。その後「大津波が来る。我々も非難する。的確な判断を頼む」という連絡を最後に一切の外部連絡が途絶えた。下本は15名の乗客に伝えた。「大きな地震がありました。落ち着くまで列車の中で待機してください」。この顛末については「三鉄情熱復活物語・三省堂」を読んで頂ければ判明する。途中を省略するが、乗客全員を無事に地元の消防団へ引き渡し任務を終えた。あと少し、もうほんの少し遅れて島越駅にいれば、全員が犠牲になった。ほんの僅かな時間。生死の分かれ目だった。

下本は宮古で生まれ育った。父は国鉄マン。その影響からか小さい時から鉄道が好きだった。野や山を駆け回り、海に行って魚を取り、体中生傷だらけの子供だった。

中学時代は野球にのめり込み、高校はラグビーに夢中になった。50歳になった今でも休日はラグビーで汗を流している。

あの大震災でなぜか大好きだった魚を食べられなくなった。精神状態が知らぬままに変化していた。なかなか普通の状態に戻ることが出来なかった。そんな時、望月社長に釣りに誘われた。普代村の沖合。震災で列車を止めた場所の目の前の海だった。船酔いをした。それでも釣れた。嬉しかった。尊敬する社長が釣りの師匠となった。突然以前のように魚を食べられるようになった。不思議だった。

釣りに目覚めたお陰で、運転により以上集中できる。仕事への喜びも大きく感じるようになった。同時に釣りの腕もメキメキと上がっていった。師匠が言った。「もう俺のこと、師匠と呼ばなくていい・・」師匠が寂しそうだった。いくら自分が師匠より上手くなったからと言って、師匠は師匠である。釣りというのは手加減が出来ない。仕方がないのでまた師匠より釣ってしまう。これもやはり運命と思ってしまう。震災前に会社のスローガンに採用された「笑顔をつなぐ、ずっと・・」。自分の素直な気持ちを表現した。素晴らしい会社、笑顔のある会社。生きがいを感じる日々。釣りも「笑顔をつなぐ」、社長にも笑顔をつなぎたい。