月別アーカイブ: 2015年1月

三鉄「熱き男たちシリーズ」 ニヒルなナイスガイ 三鉄の「高倉健」 岡本 準 50歳

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背が高い。体躯は高倉健と瓜二つだ。風貌が似ている。「不器用ですから・・」と小声で言うが、担当の施設管理部では担当部長として仕事はきっちりと器用にこなす。

出身は大槌町。東日本大震災で壊滅的打撃を受けたところだ。小学校時代は、品行方正、謹厳実直、スポーツ万能だった。大槌の神童と呼ばれた()。中学校時代は、身長がありバレーボール部のエースとして活躍した。そのころから甘いマスク、物静かな仕草からかなりモテたらしい。やがて釜石工業高校電気科へと進学。電気科での学びがその後の三鉄の専門家「電気屋岡ちゃん」と呼ばれるエキスパートへと成長する元となった。

同期に同じくらいの身長のある総務部長の村上がいる。こちらも浜一番モテた。(ともに本人談) 「俺は段ボール一つラブレターもらった」「おれは軽トラ一杯かな」と良く二人で言い合う。二人とも今はあまりモテない。

豊富な電気、通信の知識、経験は社内随一だ。北リアス線、南リアス線、すべての電気技術者として一目置かれている。部下の指導は厳しい。「プロである以上、中途半端な仕事はするな」と高倉健のように叱る。部下は「怖い」という。面倒見もいい。だから頼りにされる。

無口、寡黙、職人風だが、泣き虫でもある。「娘に会いたい・・」とつぶやいて泣く。酒を飲んでも娘を思い出して泣く。単身赴任が辛いのではなく、娘に会えないのが辛いのだ。愛娘の自慢を話すと、約2時間は話せる。止まらない。部下も「何度同じことを聞いても、初めてのように聞きます」と心得ている。

釜石では、郷土芸能の「虎舞」の名手。地元の太鼓グループのメンバーでもある。こよなく三鉄と娘と郷土を愛するナイスガイである。

 

三鉄「熱き男たちシリーズ」秘めたる闘志編 畑村 誠

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三鉄社員には奇人変人が多い。畑村もそのカテゴリーに入る。真面目な雰囲気を醸し出している写真。静かな海の如くゆったりとしている。眉毛が八の字になっているが、これが正装の顔だ。

畑村は、久慈で生まれ育った。中学時代は卓球の選手だった。しかし地区予選敗退が続き、県大会には進めず、とうとう他所の街を知らずに育った。久慈高校は土木科。極めて優秀な成績だった。(未確認) 生まれて初めて県外に出た。千葉県の土木会社に就職したのだ。生まれて初めて見る大都会。東京を経て千葉へ。久慈市より大きな街に圧倒された。人間の数が「アリの群れ」のように途方もなくうごめいている。ここは日本なのだろうかと久慈市とのギャップに悩んだ。「おら、やっぱし久慈がいい。しかも憧れの三鉄さはいるべ」とシティボーイを投げ出してUターン。平成5年。優秀な成績(未確認)で三鉄へ入社。涙と鼻水が同時に出る喜びに浸った。

 

外見とは異なり、煮えたぎるマグマのような情熱がある。何よりも三鉄の仕事が生きがいになった。施設担当として優秀な頭脳がフル回転。久慈から大船渡までの線路は、隅々まですべて頭の中に入っている。トランプゲームの神経衰弱は無敵だ。すこぶる記憶力がいい。三鉄の人間USBと呼ばれている。上司の欠点や失敗などもすべて脳内にインストールされている。「はたむらさ~ん」と猫なで声で媚を売る社員は、何らかのデーターがストックされていると見て間違いない。

酒は強い。なんでも飲む。飲むと口を開く。もう一杯飲むと無口から滑舌に変化する。さらに飲むと話は止まらなくなる。ただしくどくはない。笑い上戸の楽しい酒である。

趣味は釣り。腕前は「櫛桁より上、小田は問題外」という評判だ。恐るべし。53歳。見た目より若い。

 

三鉄ぽっぽや「熱き男たちシリーズ」波乱万丈人生編 和田 千秋 51歳

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ユネスコ世界遺産候補地「釜石 橋野高炉」に曲り屋の実家があり、そこで生まれた。釜石と言っても広い。橋野は遠野に近い山岳地帯だ。牛と豚が同居し、幼いころは牛も豚も人間と思っていた。冬は毎日、太い丸太が暖炉で燃え、天井に煙が立ち上り柱は真っ黒だった。日が暮れたら寝て、日が昇ったら起きる。大自然の真ん中の生活だった。「ビル」という名前と建物があることを知ったのは、高校になってからだ。

 

小学校のころは、木登りの天才だと言われていた。今は高所恐怖症。釜石に住みながら海を見たことが無かった。初めて釜石の海を見たとき、太陽が水平線から輝きを増しながら昇ってきた光景が目に焼き付いている。海が好きになった。その影響から、とにかく海の近くで自然の多いところを条件に家を建てた。大槌町鵜住だ。3・11、宝物にしていた子供の成長記録を含め、家、家財道具、衣服、すべてを津波で失った。見事なくらい「何も残らない」震災だった。残ったのは自分の命と家族の命。再起にはそれで十分だった。心に大きな傷を負ったが、三鉄仲間の復旧にかける熱気の輪に飛び込み、どうにか立ち直ることができた。

初めて見た海に憧れ、その海ですべてを失った。しかし三鉄運転士の誇りは失っていない。津波は恐ろしい。でも決して海は嫌いにはなっていない。運転席から見るキラキラした三陸の海はやはり好きだ。

 

三陸鉄道が復活した。頑張れば復活することを学んだ。再開通人気で、毎日大勢の人が乗車した。声をかけてくれる。大きな励みになった。何よりも可愛い女性の方たちと写真が撮れる。嬉し過ぎる。仲間も必死に働いている。これからJR山田線、釜石と宮古がつながる。その一番列車の運転士をめざしていきたい。ライバルは「泣きの佐々木運転士」と「虎舞の菊池運転士」だ。北のほうからは金野本部長が一番列車の美味しいところをきっと狙ってくるはずだ。ライバルは多い。でも盛から久慈までの160キロの一番列車は譲れない。

三陸に2015年の大きなお年玉

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待ちに待ったJR山田線(宮古―釜石)が、昨年末にJR東日本と三鉄で握手、合意しました。歴史的な出来事です。長い間、被災地沿岸の住民のために「鉄道をつなぐことが復興の証し」と必死に取り組んできた望月社長さん、社員の皆さん、岩手県交通対策室の皆さま、ご苦労さまでした。JR東日本さんも、最大の努力をしてくれました。「一本になれば、三鉄と一緒に観光を盛り上げます」と言っています。皆さんに拍手ですね。

「もう鉄道はいらない」とか「三鉄への負担金が出てくる」とか、「無駄な金」とか、いろいろ反対、批判の声もありました。その声には、地元の本当に必要としている人たちの声は反映されていませんでした。山田町や大槌町の仲間たちは「三鉄が走ってくれれば多くの人たちが来てくれる。観光客へのアピールも大きい。何より通勤通学の大きな安心につながる」と期待していました。震災直後に、山田町の観光物産館「とっと」には、すでに「未来の山田町を走る三鉄」の模型が走っています。住民の人たちの思いが詰まった模型です。

誰からも愛される三陸鉄道。今やその名は全国区です。三陸は何県?と言っても、なかなか岩手と言えない全国の人たちが、「三鉄は岩手県」と言えるのです。それだけ岩手県のアピールには格好のブランドなのです。しかも三鉄は「自分だけ」の独り勝ち的体質ではなく、公平中立の公的鉄道なのです。三鉄が及ぼす地域への経済波及効果は想像よりずっと大きなものです。

「笑顔をつなぐ、ずっと…。」は、三陸鉄道のスローガンです。岩手県沿岸が一本の笑顔レールでつながります。開通までには数年を要しますが、今まで待っていたのですから、あと数年くらいは十分待てます。新年の大きなお年玉となりました。

2015.1.9盛岡タイムス掲載

三鉄ぽっぽや「熱き男たちシリーズ」 風神様登場 内館 昭二 51歳

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花の独身である。婚期を逃したのではなく、独身を謳歌してきたのである。しかし、そろそろ限界を悟り、本年より婚活を開始する重大な決断をした。写真の目がおぼろげなのは、先輩諸氏にしこたま飲まされた後の撮影だから。普段はきりりとした風貌である。

内館は宮古市の隣町「山田町」で生まれ育った。山田町は沿岸の市町村の中でも最大の津波被害を受けたところだ。心の傷がいえるまで相当時間を要したが、三鉄魂が再び復興へ向かう気持ちを高めた。

小さいころから乗り物に弱く、バスや鉄道に乗るときは、必ず乗り物酔い止めの薬を飲んでいた。なぜ運転士になれたのか親戚中でも不思議がられている。絵を描くのが好きで、小学校時代は天才、神童と呼ばれ、写生会はいつも金賞だったことが自慢だ。無類のお人好しで頼まれると断れない性格は、会社では最も多い転勤5回につながった。「うまい話しに騙されやすい性格なので」と自己分析をしている。

運転指令になってからは、「風」が付きまとうようになった。過去最大級の台風遭遇や、強風で自動車が線路に落ちたり、元旦から突風被害にあったりと、「風」がまつわりついてくる。いつの間にか社内では「風神様」と呼ばれるようになった。ただ、今年からは「良い風」が吹いてくる風神様になる。全国から「風神様」の花嫁を募集するのだ。三鉄運転士を主人に持ちたい方は是非一報を。